良い医師会とは

 医師会は事業者団体と学術団体としての性格をもつ。事業者団体としては、同業者組合として、地域医療を支え、かつ我々の生活を守る役割がある。

よい医師会のイメージ
1)学術団体として医療の質の向上に役立つ
 地域の健康を支える。医療の質の向上をはかる。
2)同業者組合として会員に役立つ
会員のニーズに答える。国民医療を守る。


会の機能の効率化、活性化
 迅速に様々な状況への対応をはかる必要がある特に現在は医療情勢が非常にきびしい。医療従事者がまとまらないと対抗出来ない。組織がまとまるためには、会員各位が参加意識をもつ必要がある。そのためには会員の様々なニーズに良くこたえられる組織造りが重要である。

組織が有用であるには
1)機敏な意思決定ができる。
2)環境変化に機敏に対応できる。
3)質の高い支援業務が展開できる。

みなが参加意識を持って、支えることができる組織造り
民主主義が良く機能するためには、(衆愚政治にならないために)
1)参加者の質を上げる。:情報リテラシー(情報活用能力)の向上。情報教育の充実を図る
誰もが豊富な知識や情報を活用できるようにする。学習の機会を提供する。単に操作技能の習得にとどまらず、セキュリティー、著作権、情報保護、情報モラル等の観点からも充分な指導を行える環境作り。地域でのpc教育。ネットでの日常的な互いの切磋琢磨と自発性による生涯教育。3000人規模の医療従事者の参加できるような全国メーリングリストを組織する。ネットでは匿名性はできるだけ排する。質の維持は意思表示しにくい欠点を上回るか。
2)効率化
 時間空間コストを下げて意思決定をスピードアップして生産性をあげる。
3)情報の共有:情報格差の是正
 参加意識をもつためには必須である
4)意見の共有
 日常的に全員で会話する。十分討論する。少数意見の開示。積極的建設的意見のほうをできるだけ取る。
5)地域情報基盤の形成:情報通信ネットワーク網整備の促進
高速ネットワークインフラ整備を促進する。知識を伝えるためには全医療従事者のみならず、一般人を含んだ地域ネットが重要である。組織の進化には、神経網に相当するインフラストラクチャとしてのネットワーク設備(規模が大きいほうが良い)と、神経網に流れる質の高い情報を保証するイントラネットシステムが不可欠であろう。

具体的なイメージ
1)地域の全医療従事者がPCをもち、ネットワークに参加している。地域住民の参加もある。
2)情報が迅速に流れる
ネットワークではあらゆる情報が迅速にかつ万遍なく流れる。会の決議事項、注意事項。行政からの情報。
3)全員が問い合わせができる。すぐ1ー2日以内にこたえる。
 ネットで直接問い合わせが出来る。それにすぐこたえられる
4)仕事にも使える
 病診連携は人のつながりに過ぎない。相手の人となりがわかり(ネットでの日常会話)そのメールアドレスをわかっていて(名簿をきちんと)いて相手が迅速に読めれば用は足りる。(携帯性、ウエアラブル。地域全員参加)
5)対話する:切磋琢磨できる:情報リテラシーの向上。
 ネットへ参加して日常的に様々な問題に対し活発な意見を戦わせ、互いを切磋琢磨できる。
6)非常時
 日常のネットはそのまま緊急ネットとして使える。
災害情報ネットワークについて

参考文献
インターネットによる情報化の今後の方向
 組織を特徴づけるには、次の3つの指標がある[堺屋、1996、p.91]。
大きさ
組織の規模をいう。堺屋は、組織を構成する3つの要素であるヒト、モノやカネと、情報を挙げ、それぞれ量と質、フローとストックを区別している。
固さ
組織としてのまとまりのよさをいう。
堺屋は、組織への帰属意識と情報共通性からなるとし、両者の間の競合関係を議論し、固さの追求には両者を同時に達成すべきと言及している。
強さ
組織の目的達成能力の強さをいう。
堺屋は、意思決定の迅速さ、命令の実行の確実さ、目的達成のための能力集中の3つを指摘している。
高等生物は体格、頭脳、知覚が三拍子揃って進化している。組織においても生物と同様にこれらの三つがバランスよく成長するよう十分な配慮が必要である。その結果、次のような効果を生み出すことができれば、生物が進化するように組織も進化的な大ジャンプを果たし新しい種類の組織へと成長することになろう。
機敏な意思決定ができる。
環境変化に機敏に対応できる。
質の高い支援業務が展開できる。
組織の進化には、神経網に相当するインフラストラクチャとしてのネットワーク設備と、神経網に流れる質の高い情報を保証するイントラネットシステムが不可欠であろう。
インターネットを駆使しているほど、所得や地位が高い
MainichiINTERACTIVEネットワーク
情報化の進展と新たな情報格差の拡大
情報格差の是正
目的誰もが豊富な知識や情報を活用し、高度情報通信技術の恩恵を最大限に享受できるよう
<地域情報基盤の形成>
重点的に取り組む事項
●情報教育の充実
単に操作技能の習得にとどまらず、セキュリティー、著作権、情報保護、情報モラル等の観点からも充分な指導を行います。
●情報リテラシー(情報活用能力)の向上
学習の機会を提供するとともに、情報化に向けた理解の促進や啓発を行います。
●情報通信ネットワーク網整備の促進
高速ネットワークインフラ整備を促進する
「スイスの直接民主主義:経済学、政治学、憲法学の概観」報告者奥田喜道
 さまざまなタイプのレフェレンダム(人民投票、国民投票、国民表決、住民投票)とイニシアティブ(人民発案、国民発案、国民提案、住民提案)(1)が、民主主義的に望ましいものと評価され、現実に制度化されるという傾向が世界的に見られ、政治の実践の上でも民主主義に関する理論の上でも関心が高まっている
スイスを10年以上にわたって覆った不景気の原因がスイスの政治的機敏性の欠如にあるのではないか、つまり、直接民主主的制度がスイスの経済に対する阻害要因になっているのではないか、直接民主主的制度を広く採用することによって、他の欧州諸国と歩調を合わせることに支障をきたしており、それがスイスの経済にダメージを与えているのではないかといった懸念が公然と表明されたのである。
カリフォルニアの歓喜と幻滅CivicExperience
 この「納税者大反乱」の嵐は、カリフォルニアの経済が立ち直りはじめた1990年代前半まで吹き荒れた。住民提案(イニシアチブ)と住民審査(レフェレンダム)を軸とした直接民主主義が代議政治に優先し、結果としてみれば歓喜と幻滅が交錯した20年であった。代議制の腐敗や住民意志からの乖離は除去されたが、州、郡、市町村、学校区などの歳入は激減し、教育の荒廃・社会保障水準の低下・道路網の劣化・政治や行政の質の低下・犯罪の増大などを招いたのである。カリフォルニアでは最近になって、これまでの直接民主主義の行き過ぎに対する反省が出てきている。同時に、代議制に対する不信感も依然、根強い。……あるカリフォルニアの老練の政治家が言った言葉がある…「民の声は神の声ではない。民の声はかってキリストを十字架に送り込んだではないか。」
 民主主義を代議制の欠点や直接民主制の行き過ぎから守りながら日本独自のものを育てていくにはどうすればよいか、これは永遠の課題でもあるが、同時に避けてはいられない問題でもある。神戸に限らず、日本各地で火が付いているのである。
 私は、大きな問題については、行政・経済界・住民の三位一体の参画型による徹底的な討論によるコンセンサスの模索と最終的には住民投票による決着というやり方に日本の将来があるのではないかと思っている。
「21世紀への挑戦――リベラルな政策を実現するために」
シンクネット・センター21研究レポート
 IT革命下の政治のあり方
寺島 先ほど宇沢先生が、民主主義的ルールということを話されましたが、「代議制」と「民主主義」とのどちらに点々を打つかによって、代議制民主主義というものの考え方は、まるで変わるといわれています。
 代議制民主主義の考え方は、民主主義というのは、本来、民衆の声を直接反映したほうがいいのだから、限りなく直接民主主義のほうがいい。しかし、ローマ・ギリシャ時代は、声の通る範囲での民主主義が成立したが、マス・デモクラシーの時代には、代議者というものが仲介しないとまとまらないので、やむなく代議制なのだという考え方です。
 一方、代議制民主主義の考え方は、政策思想をきちんと提示して選択肢を統一する代表者がもつリーダーとしての役割を大事にする考え方です。
 そこでインターネット時代に政治はどうなるかということです。アメリカではすでに先行モデルが動き始めている。かつては直接民主主義は技術的に不可能で、民衆の声を正確に反映するような意思決定の仕組みはできないといわれていた。しかし、インターネットは人間関係をフラット化させ意思がダイレクトにつながる。中間排除というのがネットワーク時代の一つの本質になっているのですが、ここで何が起こっているかというと、技術的に直接民主主義は可能かもしれないという予感―例えば声紋鑑定とか指紋鑑定とリンクしながら、一つ一つのイシューについて、国民の世論を正しく反映する仕組みが技術的に構築できるかもしれないという予感が出てきた。
 クリントンのスキャンダルから今日に至るアメリカの政治状況を見ていますと、まず、メディアの空洞化が起こっています。「ワシントンポスト」や「ニューヨークタイムズ」が、クリントンは恥を知って辞めるべきだという社説を載せたにもかかわらず、メディアは世論形成力をもたなかった。一方で議会も、過半数の議員がクリントンは辞めるべきだと言ったにもかかわらず、クリントンは、世論が支持しているんだと、開き直って辞めなかった。そういう議会の空洞化というのが起こっています。これを背景にして、インターネット時代の政治というのが近づいてきている、という予感があるんです。そこで、アメリカでは、代議制の鍛え直しみたいな議論が起こっています。
 また、アメリカの場合、地方議員は、PTAの役員と一緒で一種のNPOです。わずかなお金で地域社会のために貢献しようという人達で、何年か貢献したらビジネスの現場に戻るというのが地方議員の仕事になってきています。 これらの流れは何かというと、職業政治家はどこまで必要かということなのです。それはまた真の指導者が必要だということの裏返しでもあるわけです。 日本でも、民主主義的なルールから考えたら納得の行かないことが進行しています。例えば、選挙時の選択と全くねじれの起こったような政権が登場してくる。あるいは、昨今の住民投票ブームといいますか、代議制を飛び越えて意思決定をしていこうということが、潮流として起こっています。
 そういう中で代議制の価値というものを本当に確立するためには、代議者である議員およびそれを支えている政党が中心になって、代議制は有効であり大切であるということを、実証・リードしていかなければなりません。そうしなければ、これからのIT革命下の政治的意思決定の中で、代議制はますます空洞化していくだろうと思います。
 そういう意味で、政策軸を必死に構築していくために、シンクネット的な、しかもITも駆使した政策の高度化という仕組みが絶対必要になってくる。そういうものを持っていたほうがいいですね、などというbetterの話ではなくて、mustの話になってきているのではないか。
代議制@LibertyandPeace
 「なんでもかんでも我々で決めていいのか」
地域住民や相撲協会といったごく限られたメンバーシップによって、国の定める人権規定や公序良俗に抵触しかねない内容が決定される危険性。今日の地方政治の「教養」レヴェルのままで、地方分権を進めるならば、このようなリスクへの覚悟も必要でしょう。アメリカの某州のように教育現場で進化論が否定されたりして。日本だと自由主義史観でしょうが(笑)。そもそも、いかなる合意であっても許されるのか。極論すれば奴隷契約は有効か。人間の身体・生命は神が与えたもうたものだから、他人へ勝手に譲渡できないとする自然権論は、我々では決められないものがあることを前提としていますね。法の支配の原則も、合意によっても覆されない何らかの法の存在を主張します。さて、日本国憲法の改正規定を用いて、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権といった、憲法の根幹に関わる規定の改正が許されるのか?
さらに事柄の性質上、多数者の判断に従うことが不適当な場合もある。病人の治療に多数の素人の意見を採用していたのでは、治癒は見込めません。学校での成績評価もそうでしょう。類似のことをソクラテスは政治に適用して、国民に迎合し快楽を提供することを政治とせず、説得や強制を通じて国民の魂の改善を図ることをもって「政治術」としました。アテナイのデモクラシーに批判的だった彼らしい見解です。1970年代のアメリカでは、ベトナム反戦運動・公民権運動などに伴う混乱を批判する立場から、デモクラシーの過剰が論じられたと記憶しています。またソ連邦崩壊の際、各共和国が連邦からの離脱する旨合意したことの妥当性が議論になりましたね。ここには規模の問題、メンバーシップの問題もからんでいますが。
「自分たちで決めたのだから、したがうのが当然」なのか
およそ決定においては、決定された事柄に従うことが前提にある。ですから、デモクラシーであれ君主政や貴族政であれ、決定に従うのが当然です。ソクラテスも判決に従って毒杯を仰ぎました。また、「自分たちで決めたのだから」というのが常に正当化の論理になるわけではありません。では、なぜ「自分たちで決めたのだから」が正当化の論理たりえるのか。それはデモクラシーにおいては「自分たちで決める」ことが良いことだ、とされているから。じゃあ、それがなぜ良いのか。貴族政や君主政では悪い決定が下されるから。じゃあ、なぜ悪い決定なのか、「自分たちで決められない」から、という循環がある。貴族政であれば、財産と教養ある人々が決定したんだから正しいんだろう。君主政であれば偉大で神聖な国王が決定したんだから正しいんだろう、という形で決定への服従が正当化されるでしょう。決定に対して服従を調達する循環論法としては等価ではないですか?要は多数者の専制か、少数者の専制か、一者の専制かの違いでしょう。
ただし、どの統治形態であれ、いったん成立した決定をその後の事態の推移に応じて蒸し返し、別の決定を下すという可能性はあると思います(決定主体の正統性が動揺するかもしれませんが)。とはいえ、この可能性はデモクラシーから導き出されるのではなく、人間は誤りうるという自由主義的な前提に拠るものでしょう。ちなみにアリストテレスは、デモクラシーを多数者による支配の堕落形態(敢えて翻訳すれば「衆愚政」)と位置づけ、堕落していない形態「国制」にするには、多数者が公的利益を目指して統治する(少数者の利益を不当に侵害しない、法の支配)必要があるとしています。古代アテナイのデモクラシーでは、国法に対する強烈な遵守意識が自由の観念と不可分に結びつきつつ存在し、その上で多数者の支配を言っていたので、ある時期までは衆愚制にならずにすんだということでしょうか。それから、これは乱暴な理解かもしれませんが、私は古代のデモクラシーもルソー・モデルも大差ないと考えています。また、既に論じましたが、デモクラシーに少数者の排除(多数者の専制)を阻止する力はないとも考えます。なかなか「原義上のデモクラシーの有効性を代議制との関連で考え」るところまで行き着きませんね。